藻岩山山頂の六角堂と三十三観音霊場 「藻岩観音奥の院」で参拝者をつなぐ 渡辺吉次さん(86)

(「もいわ暮らし」ライター・佐々木寧子:もいわ塾4期生)

 藻岩(もいわ)地区でもっとも標高の高い場所は藻岩山山頂である。

 藻岩地区は現在、川沿(かわぞえ)、北ノ沢、中ノ沢、硬石山(こうせきやま)地域一帯を指すが、ここ藻岩山の山頂エリアも含まれる。

 藻岩山は、古来アイヌ民族から「インカルシペ」と呼ばれ、霊山として畏敬(いけい)されてきた。山頂展望台のとなりに小さな六角形のお堂がある。「藻岩観音奥の院」である。この山が藻岩山と呼ばれ、札幌市民に親しまれるようになる前からここにあり、531メートルの山頂から静かに札幌の街を見守っている。この奥の院には木像の本尊である「竜頭観音」が納められているが、奥の院を30年以上にわたって毎週欠かさずお参りし、守って来た人がいる。渡辺吉次さん(86歳)だ。

 渡辺さんは毎週末、奥の院を開け、境内の掃除、本尊へ水やろうそく、お線香をお供えする。防犯カメラの設置や盗難の予防措置などもあり業務は多岐にわたる。参拝者からのお賽銭(さいせん)などは山麓にある観音寺にお届けする。そうした日常の勤めのほか、年末年始や山開きなど年中行事には花や鏡餅の用意もする。すべて無償だ。まさにこの奥の院を陰で支えている人である。こうした永年にわたる奉仕活動の原動力は何なのか、お話を伺った。

 

 

藻岩観音奥の院のなりたち

 藻岩山登山をしたことのある人なら、登山道の傍ら、周りの木々にとけ込むようにたたずむ、いくつもの観音像を目にしているだろう。33カ所に安置されている観音像の歴史は藻岩地区の開拓期までさかのぼる。

1881(明治14)年、浄土宗の北辺布教に心を燃やした大谷玄超上人は、札幌に浄土宗北緑山新善光寺(中央区南6西1)を開山する。初代住職となった大谷上人は、住民から霊峰として敬(うやま)われていた藻岩山に観音様をお参りする「北海道新四国三十三観音霊場」を構想した。

 1886年、札幌県令より許可を得た上人は、信徒と共に未開の樹海に頂上に至る参道の開削を始める。山中の開削は困難を極めたため観音像の安置は見送られ、代わりに三十三カ所の樹木に『観音像絵図』を掲げ礼拝し、翌1887年6月1日に第1回の「山開き大祭」を開いた。

藻岩観音奥の院
藻岩観音奥の院

 その後、二代目住職となった林玄松上人が1900(明治33)年、現在の慈恵会(じけいかい)病院登山口付近に観音堂を建立し、翌1901年、先代の遺志を引き継ぎ、困難な参道わきに、絵図に代わる、33体の観音石像の安置を果たした。そのとき山頂に一坪(3.3平方メートル)ほどの石堂を建てている。この「ほこら」が「藻岩観音奥の院」の始まりである。重機もない時代、鬱蒼(うっそう)とした原生林を切り開き、およそ3キロメートルに及ぶ山道を開墾する困難は想像を絶する。

登山道にある27番観音像
登山道にある27番観音像

 林上人の弟子となった尼僧の中田松念尼(ねんに)は1932(昭和7)年、師匠の遺言を守り、荒れ果てて無人になっていた山麓の観音堂に入り、昭和25年、初代観音寺住職となる。中田念尼は、たった一人で布教をしながら檀家(だんか)や信徒を集め、資金を募りながら観音寺の母体を築きあげ、現在、「浄土宗藻緑山観音寺」へと再興させた。女性がこのような偉業を成し遂げるのには多くの苦労があったと想像できる。

 また、石堂の改築も進め、ブドウのつるや木の枝を目印に、人がやっと通れるほどの道であった参道をより広く、こう配もゆるやかな登山道に改修した。石の「ほこら」は1973(昭和48)年に六角堂に再建され、1992(平成4)年に現在のかたちに生まれ変わっている。

 ところが、藻岩山頂の六角堂の傍らにある「水かけ観音」は33番目の観音像ではないという。登山道には33体のうちの2番から32番まであるが、1番と33番が見当たらない。

 実は、登山口の手前にある「観音寺」の境内に、登山道にはない二つの観音像があった。1番目は大きいのですぐ分かるが、33番は礎石の文字が薄くなって分かりづらいが、ぜひ探してみてほしい。観音寺の前身は、中田松念尼が再興した、あの無人で荒れはてた観音堂だったのだ。その観音堂も改修されて観音寺の境内にある。1番と33番の観音像は、山道を歩けない人も、ここに来れば、最初から最後の33番まで拝むことができるということだ。

 山頂の石堂(藻岩観音奥の院)の設置を記念し、毎年6月1日、「山開き」の行事が行われてきたが、近年は前日の5月31日を山の標高531メートルにちなんで「もいわの日」と名付け、さまざまなイベントが行われている。本年も藻岩山ロープウェイを運行する札幌振興公社や、札幌市教育委員会などが青少年向けに恐竜の模型を展示し『原始の森で恐竜を探せ!』というクイズラリーや、ステージでのアイドルライブ、チアダンスショーなど楽しいイベントが開かれた。

渡辺吉次さんと「奥の院」の出会い

 渡辺さんは新潟出身で、18歳のとき集団就職で上京。当時、東京を中心にコーヒー豆の焙煎(ばいせん)や、喫茶店チェーンを展開する会社に入社。就職後すぐに札幌に配属が決まる。札幌で老舗の焙煎コーヒー専門店としてコーヒー好きに長く愛された店で、定年まで勤めあげた。いまでも渡辺さんのいれる熟練の味は格別で熱烈なファンが多い。

 渡辺さんが「藻岩観音奥の院」に関わるきっかけは、観音寺二代目住職の中田光信(こうしん)さんとの出会いからだ。登山好きだった渡辺さんが、藻岩山登山道の慈恵会病院登山口から山頂を目指す途中、観音寺の庭で一人、黙々(もくもく)と草むしりをしている住職を見かける。汗をぬぐいながら懸命に草を取る住職に思わず声をかけ、草むしりの手伝いをしたのが始まりだという。渡辺さんが会社を定年退職して間もない55歳のときだ。その後5年以上にわたり住職の元で補佐役として働いた。観音寺の境内の管理や住職の檀家(だんか)参りの送り迎え、法要時の駐車場誘導や設営などを一手に引き受け、晩年まで住職を支えた。同時に、山頂の奥の院へも毎週末に足を運び、管理している。

 渡辺さんが長きにわたりこの奉仕活動を続けてきたのは、亡くなられた二代目ご住職の遺志を引き継ぎたいという信念と、奥の院を訪れる参拝者への慈(いつく)しみからだ。

「二代目の行信さんは、小学生の頃に観音寺の養子となり、初代住職の中田松念尼と共に観音寺の発展に尽力してきたのです」。二人で力を合わせ、何の後ろ盾もない状態から寺を築き上げ、仏道と寺の興隆に全てをささげてきた。「前住職は、観音寺の原点ともいえる奥の院を非常に大切にされていました」と語る。渡辺さんは尊敬する前住職の遺志を継ぎ、奥の院を守っている。

ゴジュウカラも姿を見せる
ゴジュウカラも姿を見せる

時代は変わっても心の安らぎを受け止める場所

 奥の院にお参りする人の理由は様々だ。藻岩山での不慮の事故で命を落とされた奥さまの供養に毎週欠かさずにお経を読む男性や、藻岩山に登りたがっていた、亡き息子の供養に33カ所を巡る女性もいる。もちろん登山者や、おみくじを買う人、記念写真を撮る外国人観光客などいろいろだ。神社と間違えてかしわ手を打つ人も意外に多いという。

 渡辺さんは、「ここに来るとほっとする」という言葉をよく耳にする。ここが人々の心のよりどころであってほしいと語る。「特別なことなんか、な~んもしてないよ、俺は若い人と違って時間だけはあるからなあ」と笑う。しかし前住職の遺志を引き継ぐ強い決意と、人々の心の安寧を願い続ける優しさが表情にあふれていた。

 寺院は時代が変わっても人々の祈りや願いを受け止める場所である。ここ藻岩観音奥の院にとって、奉仕の志(こころざし)で務めておられる渡辺さんの存在は大きい。

(「もいわ暮らし」ライター・佐々木寧子:もいわ塾4期生)